01 「デザイン」の現在地
近年、「デザイン」という言葉がやけに軽やかに使われているように感じます。
製品やサービスといった従来の枠を超え、コミュニケーション、教育、地域、福祉、さらには人生そのものまでもが「デザインされる」と表現される時代。その定義は曖昧なまま、言葉だけが独り歩きしているように思えてなりません。確かに「デザイン」という語は耳障りがよく、どこか前向きな響きを備えています。その言葉を添えるだけで、何か洗練され、価値あるものに見えてしまう――そんな不思議な力を持った言葉です。
しかし、かつて「設計」と訳されたこの言葉の本質は、問題を見出し、構造を組み立て、意図を込めて機能させることにあったはずです。それが今や、ただの装飾や雰囲気づくり、あるいは気の利いたコピーにすら「デザイン」の名が与えられている現状があります。
私はこの風潮を、手放しでは肯定することができません。誰もが「デザイン」と唱えるだけで、あたかも問題解決を果たしたかのような錯覚に陥ってしまう。その軽薄さが、「デザイン」の本質を遠ざけてしまっているのではないかと危惧しています。
もちろん、言葉が意味を広げていくのは自然なことです。時代とともに語の定義が変容するのは、むしろ健全な現象と言えるかもしれません。けれども、あまりにも拡張された言葉は、ときにその核心を見失わせてしまうものです。
いま一度、「デザイン」という言葉の現在地を確かめたいと思います。それはすなわち、デザイナーという存在が何を成すべきかを、自らに問い直すことでもあるでしょう。
02 言葉のピンぼけ
カメラを操作していると、焦点に関する二つの設定があることに気づくはずです。「オートフォーカス」と「マニュアルフォーカス」。
たとえば、テーブルの上にひとつの林檎があるとします。オートフォーカスであれば、カメラが自動的に林檎に焦点を合わせてくれます。一方、マニュアルフォーカスでは、ファインダーをのぞいてもそこにはぼんやりとした赤い丸が映るだけ。撮影者は、自らの手でピントリングを調整し、林檎に焦点を合わせなければなりません。
「デザインとは何か?」――この問いに対し、多くの人が答えに詰まるのは、まさにピントが合っていない状態にほかなりません。
残念ながら、いま「デザイン」という言葉を前にして、私たちの多くは“オートフォーカス”が作動していない状態にあると言ってよいでしょう。
この章では、「デザイン」という言葉にピントを合わせ直すことの意義について考えていきたいと思います。
なぜ、「デザイン」という被写体は、これほどまでにぼやけてしまったのでしょうか。
それは、デザインという言葉がこの数十年のあいだに、あまりにも多くの領域に浸透し、その対象範囲を急速に広げてきたためだと思います。
それ自体は、デザインの可能性が広がったという点で、歓迎すべき側面もあるでしょう。誰もが創造に参加できるという意味で、それは「デザインの民主化」とも呼べるかもしれません。
ただし、その過程で「何をもってデザインと呼ぶのか」が見えにくくなってしまったことも否めません。
ピントの合っていない写真のように、なんとなく雰囲気は伝わるのに、肝心のかたちは見えてこない。
それはまるで、赤いかたまりを見て、「きっとこれは美味しい果物なのだろう」と判断してしまっているような状態です。
しかし、本当はその果実がどのような形であり、どのような質感を持つのかは、じっくり焦点を合わせなければわかりません。
では、ぼやけた「デザイン」という言葉にピントを合わせ直すとは、どのような行為なのでしょうか。
それは、単に明確な定義や枠組みを与えることではなく、むしろ、何をもって「デザイン」と呼ぶべきかという感受性を取り戻すことにこそ意味があると考えています。
私たちが本来見落としてはならなかった「設計の意図」や「構造の選択」、それが果たしてどのように機能しているのか。
そうしたものに気づく視力を、もう一度自らの内に取り戻すこと。
それこそが、ピントを合わせ直すということではないでしょうか。
情報が洪水のように押し寄せる現代において、私たちは多くの物事を「見えているつもり」で受け取りながら、実際にはその奥行きや構造を把握しきれないまま、次々と消費しています。
「デザイン」もまた、その対象のひとつです。
本質を見失ったデザインは、単なる見た目の良さを装うだけの印象操作や、「売れること」だけを目的としたマーケティング用語へと変質してしまうおそれがあります。空疎な響きだけが先行し、「なぜそれがそうなっているのか」という“設計思想”への問いが抜け落ちてしまうのです。
だからこそ今、もう一度「焦点を合わせる力」を、自分たちの内に取り戻す必要があるのではないでしょうか。
もし、「デザイン」という言葉がぼやけて見えているのだとすれば、それは私たち自身のレンズを、もう一度調整すべき時なのかもしれません。
03 デザイナーの行方
デザインという言葉の意味が拡張されるなか、「デザイナー」という存在の役割までもが曖昧になりつつあります。
「デザインの民主化」によって、誰もが創造の担い手となる時代が到来しました。その一方で、デザイナーという肩書きを持つ人々は増えながらも、その立脚点はむしろ不明瞭になっているように思えます。
今一度、後ろを振り返り、現時点の自分の立ち位置を確かめ、そして前を向きなおす必要があるのではないでしょうか。
この章でも、カメラを例にとって考えてみたいと思います。
現在、「デザイン」という被写体のまわりには、「アート」や「デコレーション」、「マーケティング」といった言葉が別々の位置に存在しています。そして私たちは、自らの「ファインダー」からそれぞれの言葉にピントを合わせ、それに応じた行為を日々おこなっているのだと思います。
もし、それが“デザイナー”としてのファインダーであるならば、前章で述べたように、「デザイン」という被写体に、きちんと焦点を合わせる必要があります。ただし、デザインという言葉だけに目を向けるのではなく、その周囲に佇む言葉たちが、どこに立っているのかを把握することもまた重要です。
それらの言葉の間に流れる微細なニュアンスをくみ取り、なぜ異なる言葉として存在しているのかを理解する――そのプロセスを経て、ようやく「デザイン」という言葉に真正面からピントを合わせることができるのだと思います。
もうひとつ、カメラの概念から言えば、「解像度」という要素も見逃せません。
解像度とは、画像の密度を表す数値であり、それが高くなればなるほど、写真は情報量の多い、質の高いものになります。
たとえ被写体に正しくピントが合っていても、解像度が低ければ、その像はどこか粗く、浅い印象になってしまいます。
私たちが「デザイン」に対してより鮮明な視野を持つためには、この“解像度”を上げていくことが求められるのではないでしょうか。
そしてその解像度を上げるには、「知見」こそが鍵になるのだと思います。
さまざまなデザインに触れ、アートを見つめ、本を読み、異なる分野と接触すること。
それらの行為の積み重ねが、やがて私たちの内部に蓄積され、ファインダー越しの世界をより豊かに、深く、鮮やかに映し出す力となってくれる。
それが、これからの“デザイナー”のひとつの在り方になるのかもしれません。
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